はじまりからおわりまで

人生はきっと愛だらけ

ありがとうございました

 

はじまりから何週間か、

ノートに独り言を書くということをブログへ移行し

結構楽しく書くことができていました。

ところがどっこい、私の頭が悪く憧れの方に

見てくれたまえと言わんばかりのブログを書き

なんだかもう本当に自分馬鹿だなぁと思いました。

しかしブログを見ていただけたことはとても嬉しかったです。

それに対する一つ一つの言葉に赤面しながら、部屋をうろうろしながらものすごく喜んだのです。

 

ブログを見ていただけた後からアクセス数が増え、

見る人増えました!ありがとう!

とならずに増えても何も変わりませんでした。

そういった事を見る人増えましたありがとうの感謝よりも

ただお相手に感謝をお伝えできたことが、ブログでお伝えできたことが嬉しく

自分が言いたいことであったのです。

 

私の今までの人生の最大のコンプレックスといっても過言ではないくらいの

大きな錘のチェーンをぶちっと強力なペンチで切っていただいたような

感覚でありました。

そのような方に直接感謝をお伝えできたこと。

それだけで十分でした。

 

ですが自己啓示欲というものなのかなんなのか、

側から見ればちっぽけかもしれませんがアクセスも増え読者数も増えていくと

面白い「ネタ」を書かなければいけないと思うようになっていきました。

そして実際に「ネタ」を書きました。

 

そして悲しいニュースに目を瞑りたくなり

「世の中の暗いところ」というものを皆生きていてという気持ちを込め書きました。

 

けれどそもそも「ネタ」を書くためにブログを始めた訳でもなく、

憧れの方々をこっそり隙間から覗きながら

隅っこのほうで文章を書くということがしたかったのです。

今でも十分隅っこなのかもしれませんが

私は歩道をちびちび歩いているところから

いきなり原付に乗って左車線を走るところに

来てしまったような感覚です。

フラフラです。

アクセルとブレーキが上手く使いこなせていません。

 

私の書いたもので何かを感じていただければと

思ってはいたのですがそこに読者数とかアクセスとかいらなくて

私の書きたいことはなんだろうとモヤモヤしておりました。

もう本当めんどくさい事言う人ですね...。

気にしなければいいじゃん!

その通りなのですが、アプリを開けばそこにあるので気にしないが出来ないのです...。

 

隅っこで文章を書いて隅っこで文章の練習をして隅っこに載せていきたい。

 

ブログ自体を辞めることを考えたのですが、

文章を今より上手く書くための練習をノートに書いてするよりも

ネット上に書いてやる方がとても良いという事に気が付きました。

 

なので誰かが見てるのか見てないのか

分からないような隅っこで書き続けることにします。

全然隅っこじゃなくてそこ有名だし!

と言われるような場所を選んでしまいそうなのですが...。

 

このブログはここでおわりにします。

ブログ見ます!などをおっしゃっていただいた方々、

少しの言葉がものすごく嬉しくどれだけありがたかったことか...。

私はただ考えすぎのめんどくさい奴ですが...

感謝をお伝えします。

 

ありがとうございました。

 

見てくださった方、ありがとうございました。

 

これからどこかの隅っこに潜り込んできます。

 

 

 

私とイチゴとコマネチと

 

あの子に彼女いた。

え、そうなの?うそだろぉそんなぁ...もっと早くに教えてよー。レズビアンだからといって全ての女性に恋をするわけじゃない。レズビアンだって苦い経験があるものだ。苦い経験、いや絶望だ。今は絶望を通り越して私という人間が消滅しそうなくらいだ。

 

あなたの彼女は、あなたの笑顔を眠る前まで見ていられるのですから、毎夜夢の中で生きているかのような心地でしょう。そして朝起きてコンビニへ行き、いつもの肉まんとあんまんをあなたと半分こできるのでしょう?あの君に届けみたいな甘酸っぱい青春のひと時から愛の渦に巻き込まれるようなひと時まで...。私はさぁ、嫉妬の渦に巻き込まれているんだよぉ。あぁこのどうしようもない気持ちを抱えたまま私は一人でふかふかのお布団へ潜り込み隅っこで顔を埋めながら眠りにつくのか。くだらないなぁ誠にくだらない!ええいくそっ、もう寝てやる。

 

目を開けるともう朝だ。朝かよーもう朝かよ。来る日も来る日も朝がある。清々しい朝はここのところ訪れていない。清々しい朝とはなんぞや、分からん!今日もあの子の目に映ることのない私、を過ごすのだなぁ。あぁなんと楽しくない1日ですこと、いやですなぁ。

 

お湯を沸かしパンを焼く。ふと、昨日買った特売のイチゴのことを思い出しパックの中から数粒取り出して洗いお皿に盛った。特売のイチゴは小粒で可愛らしい。小粒ちゃん。お前はなぜそんなに愛らしいのか。まるであの子のようだ。いかんこれはイチゴだ。あぁイチゴ、イチゴはなぜイチゴなのか。イチゴはイチゴに生まれて幸せなのか。イチゴはイチゴとして人間に食べられるが、食べる側の人間を選ぶことなど出来ぬではないか。口のくっさい汚ったない人間に食べられるのかもしれないのだぞう。

 

私だったら嫌だ。どうせ食べられるなら、ここのところ少し疲れ気味だから今日は栄養のあるものを買って帰ろうとぼやき、いつものスーパーで値引きシールを貼られたイチゴ残り三つのうちひとパックを手に取りこれでとりあえずビタミンを摂取しようと試みる黒髪の女性。薄茶色の目をした綺麗な瞳に見つめられほど、よく厚みのある艶やかな唇に吸い込まれまれるように食べられたい。あぁと吐息を漏らされれば私はその女性の胃の中で穏やかな最期を迎えることができるだろう。そんなことを選べぬお前を不幸に思う。私はイチゴになりたくないなぁ。人間も辛いけどなぁ。そんなこんなを考えながら一粒、また一粒と、小粒のイチゴを食べた。美味しいなぁお前。不幸な私に食べられるお前、不幸だなぁ。

 

イチゴとあの子で頭がいっぱいになりながら犬の餌やり歯磨き皿洗いを終え眉毛を整え支度を始めた。今日は祖母のお姉様と会う日だが、気分が沈む。お姉様に会うのは祖母の法事以来であれから半年以上も経つ。

 

元気にしてらっしゃるのかなぁとぼんやり考えるがあの子が頭を過ぎる。すごくネチネチしているなぁ私。ネチネチし過ぎてネチネチを「コマネチ」とよびたいくらいだ。

 

『私すごく「コマネチ」しててさぁホント嫌なんだよねぇ。もうホント「コマネチ」だわぁ』

ほらコマネチというだけで気分が違うだろう?そんなくだらないことを考えおにぎりを頬張っているとすぐに着いてしまった。高速道路の快適さが身にしみる。

 

お姉様の住む高齢者向けのマンションに着くとお姉様が裏の入口から出てきた。背骨が曲がり以前より小さくなっていたお姉様は挨拶を交わすとそばにある桜に目を向け

「もう咲いたんやなぁこれ桜やなぁ」

と瞳を輝かせていた。

「そうだねぇ早いねぇ」

桜に関心がなかったが私の住んでいるところよりも都会であるここは桜が4分咲きくらいでいつもより春を感じた。

「東京ではもう満開なんやてなぁ、ついこの前まで雪降ってたのに」

「そうだねぇ早いねぇ」

会話を交わしながら部屋へ行く。花や手芸が好きなお姉様の家にはいくつもの作品が壁に飾られている。花の絵であったり刺繍であったり、部屋の隅や玄関には造花が飾られ美しく整っている。こういうものにはやはり性格やセンスが出るらしい。お姉様の雰囲気と調和がとれたこの部屋はとても居心地の良い空間。お茶を頂きたわいもない話で盛り上がる。お姉様のお話は聞く者に笑顔の花を咲かせる。途中でふと好きなあの子を思い出したがお姉様のお話がそれを消していく。

 

そんなお姉様の家の近くには有名な神社があり、その脇には小さなお店がいくつも並ぶ参道がある。参道には美味しいお煎餅屋とカステラ屋があり、お姉様の家に訪ねた際には必ずお土産に買って帰るのだ。

 

「今日もお煎餅買いに行くんやろ?」

そう言われ1人参道へ向かう。今回は普段通らない脇道を使う。なぜなら祖母が亡くなってから一年経たないので神社の鳥居を避けて通らねばならないからだ。しかし参道の手前に着くと巨大な鳥居が出迎えてくれた。ここを通らなければ参道へは行けない。そこで法事の際お坊さんが言っていたぼやきを思い出した。「神社に行けないじゃないですかぁ」と誰かが言うとそのお坊さんはこんなことをぼやいた。

 

「迷信ですけどねぇ」

あぁそうか、迷信だわ。迷わず鳥居をくぐった。脇道を抜け参道へ行く。ほどよく賑わい老若男女が楽しそうにお買い物をしている。私の目当てはお煎餅屋とカステラ屋なので他店には目もくれず一直線に向かう。いつもより歩幅が大きい。ほどよく賑わう中を颯爽と、駆け抜ける感覚で歩く。爽快だ。参道入口にある煎餅屋はあとで訪れることにした。最初に向かうカステラ屋までは少し距離があり上り坂を登っていった左側にある。

 

ぼーっとしている店員であろうおじさんに声をかける。いつも必ず1つカステラを頂く。相変わらず美味しい。「何個入りします?」とおじさん。「十八個入りひとつと三十六個入りひとつください」ひとつは私の姉へのお土産だ。袋に入れている間に焼いていたカステラが出来上がった。「ちょっと待ってね」とおじさん。焼けたカステラを楊枝のような物で飛ばしていく。透明のガラスに飛ばされたカステラが当たる。すると見事に収まるべき場所へ収まっていく。おぉと私が歓声を上げるとおじさんは、

 

「最初はあっちこっち飛び散ってねぇ、場外ホームランばっかりだったよ」

予想していないジョークに大きく口を開けて笑った。そしておじさんもすごく嬉しそうに笑っていた。和むなぁ。ありがとうを伝え参道入口の煎餅屋を目指す。煎餅屋まで下り坂が続くので更に歩幅が大きくなり爽快に歩くことができた。着いた煎餅屋では80歳を過ぎたおじいさんと少し怖そうなおばあさんが表で煎餅を焼いている。

 

その少し怖そうなおばあさんに声をかけ五百円の袋を三つくださいと伝える。二つはお姉様と私の姉へのお土産だ。「はい千五百円ねぇ」財布を見ると先程のカステラ屋で千円札を使いきってしまったため一万円札しかなかった。おばあさんが小銭を出さずに済むようにと一万五百円を渡した。一万円を渡したあとに五百円を渡すとおばあさんがこちらを驚く顔で見た。

 

「五百円なんて、あんたまぁこんな小銭出す人おらんよぉ、皆一万円だけやでぇ?こんなん出す人、百人に一人くらいやでぇ」

笑いながら思いっきりツッコまれた。まさかのツッコミがおかしくまた大きく口を開けて笑ってしまった。もう何もかもが面白くなっていってしまう気がしてならなかった。足早にお姉様の家を目指す。帰り道中桜が咲いていたので写真を撮った。撮り終えると数人の子供の声が聞こえた。

 

「わああああしゃくらがしゃいているぅ〜」「うわあああすごおおおおい桜だあああ」

桜でものすごくはしゃいでいる。子供が桜を見てはしゃぐなんてことがあるのだなぁ。桜より子供達が素敵に見えた。家へ着きお土産のお煎餅をお姉様に渡す。それからおやつのブッセのようなものを頂きながら会話が弾む。

 

「私なぁ好きな食べ物とかあんまりないねん。孫らが好きなもん買って行くわぁとか言うてくれるねんけどなぁ、好きなもんいうても私そんなあらへんねんなぁ。かというて嫌いなもんもないしなぁ」

そう言いながらブッセのようなものをペロリとたいらげた。和やかなひと時を終え、また会う約束をしさよならをした。帰り道中、私の姉へお土産を届けるついでに泊まらせてくれというLINEを送った。いいよとのことで自宅へ帰り荷造りをして姉の家へ向かった。姉の家は新築でとても綺麗。どこかしらお姉様の家の居心地の良さと似ている。着くとすぐお土産を頬張りながらのおしゃべりが始まり、全ての話題が爆笑で終わっていった。

 

そして風呂に入るのだが、風呂釜が大き過ぎて入り方に困る。どこに身を置いていいのか分からないのだ。風呂釜の中でぐるぐる回るという刺激的な入浴を終え再びおしゃべりが始まる。新品のソファーでくつろぎながら、あの子のことは話さず、互いのお気に入りの歌手の話や友達の話。そしてここ最近文章を書いているが少しびびってうまく書けないということも話した。それを聞いた姉は

 

「イエーイで喜べばいいやん!やったーってなってポジティブにイエーイでいいやん、それだけ集中できるっていうのもすごいよ」

と、あっけらかんとした表情で答えた。

「そうなのかぁ、ポジティブにイエーイなのかぁ」

忘れかけていた楽しむということを教えてくれた。姉のこうした言葉に度々救われている。感謝だ。

 

一通り話を終えたところで布団へ入る前、ふと今朝のイチゴのことを思い出した。

 

イチゴはイチゴとして生まれ、イチゴとして育ちイチゴとして生涯を終える。立派にイチゴの役目を果たす。それが例え口のくっさい汚ったない人間に食べられたとしてもまた野生の鹿や猪などの獣に食べられたとしてもイチゴは誰かの腹を満たす。人間でも獣でもその子供なんかが食べたら笑顔が満開だ。イチゴは人を生き物を幸せにする。

 

そしてイチゴ自身もイチゴであることを楽しんでいるのかもしれない。イチゴとしての幸せを手に入れているのかもしれない。あの子の彼女はあの子を幸せにしている。そこに例え見返りがあったとしてもあの子が彼女を選ぶ限り互いに互いを幸せにする。幸せを与え合う。

 

もうここにイチゴを不幸に思う私も、私を不幸に思う私もいなかった。あの子の彼女を羨み恨む私もいなかった。ただ確かにあったのは、自分の足でどこまでも歩きまたそれを楽しみ私は私の役目を果たすという意思を自分だ。誰かに飯を作って与えてもいつか出会う可愛い女の子のために毎日体を綺麗に洗い清潔さを保つことも咲き誇る桜に目を向け綺麗だねぇとつぶやくことも、ポジティブにイエーイとなることも私の役目であり私の人生だ。与え続けていくことで楽しみ続けていくことで誰かの腹を満たすことができるかもしれないだろう?そのためにはひたすら歩き私という人間を育ませてやるのだ。

 

イチゴよ、お前よりは長くかかりそうだが成熟し熟れた私を欲す女が現れるまで一生懸命生きるぞ。そして私はその女への役目を果たすだろう。愛を与え腹一杯にしてやるということを。

 

いいことを学んだぞ。さぁ今日は姉の家で姪がいるふかふかの布団へ潜り込み隅っこで顔を埋めながら眠りにつこうじゃないか。清々しい朝が久しぶりに訪れるだろうからなぁ。いやちょっと待ってくれ、姪の足が顔の前にきてしまったじゃないか。蹴られそうで動けない。あぁもうなんてこった。あの子は今頃愛する彼女と同じベッドで寄り添い夢の中へ...。

 

私は今も「コマネチ」している。ほんとコマネチしてるわぁ。

謝罪

 

以前の記事を削除します。

理由は、ある有名な方の記事と私の書いた文の共通点があったからです。

その方の本の購入を考えておりましたが、

本は紙で読みたいのと本屋で購入したいというこだわりがあるためまだ購入できておりませんでした。

 

そしてその方のTwitterに試し読みができますとのツイートがあり、試し読みページをブックマークして時間があるときに読もうと思っておりました。

 

それを見る前に私は1つ前の記事、「なる、猿は熱いもの」を投稿しました。

 

そしてたった今、先ほどの試し読みを読み申し訳なさでいっぱいになりました。

書いてある文があまりにも共通点があり、これでは私は勝手に盗んで書いたものみたいじゃないかと思ったからです。

その方の本を楽しみにしていたのに、その方にご迷惑がかかるような記事を書いてしまったと思います。

いい気がしないと思います。

 

本当に申し訳ありませんでした。

 

そして著者のファンである方、その方が私の記事を読んでいたらとても不快な気分であったと思います。

本当に、本当に申し訳ありませんでした。

 

 

 

世の中の暗いところ。

 

世界中どこにでもあるもの。明るい場所、暗い場所。
犯罪が多発している街や路上で誰かが何かのパフォーマンスをし続けている都市、人混みを掻き分けながら通勤する人々が毎日溢れている場所や、田んぼや畑の周りを静かな音を立てながら果てまで流れていく小川のある場所。言葉にするだけでその情景が目に浮かぶ、見慣れたものだからかなぁ。

 

場所は目に見えていて、雰囲気を感じられ、細部へは関心を寄せないものです。

 

どれほど明るい場所であっても目に見えない暗いところがある。

 

明るい場所でも暗いところでの傷は忘れることなく毎日ズキズキと心へ響いいたり、
暗い場所でも明るいところを見つけ辿り着いた癒しは心の風通しを良くさせます。

 

明るいところへ出れたのに暗いところへ戻っていった人がいた。
自らの意思で戻ってしまったのか。
嫌でも戻らなければならなかったのか。
戻らされたのか。
明るいところでの救いは1つもなかったのであろうか。
元の暗いところでの救いは1つも与えられなかったのであろうか。

 

救いを問うことで救われるものならば、こんな議論必要ないのだなぁ。

 

明るいところに長くいると暗いところがやってくる、そう感じていた人そう信じていた人は一体世界にどれほどいるのだろうか。

 

少なくともここに、1人、そう信じてしまっていた人がいる。暗いところにいて救いを求めることを知らずただ耐えていた。明るいところをひたすらに待ち続けていた。救いを差し伸べてくれるはずの者は怯える恐怖を与えていた。

 

しまいに鳩の鳴き声が叫び声に聞こえてしまうのは不思議だなぁ。
そんな不思議な耳、欲しく思う人はいるのだろうか。

 

なにより鳩に失礼じゃないか。叫んでないってほら、ホロッホー。

 

毎日ぽつんと曇り空の元にいる人。
耐えている人、怯えている人、泣いている人、言葉が出ない人、怒られる人、笑えない人。涙が出てきてしまう人。

 

暗いところは苦しいなぁ。
暗いところは寂しいなぁ。
ここんとこ毎日曇っているなぁ。

 

たまに、晴れているときもあるのだなぁ。
よし頑張ろうと思っても、暗いところがすぐ近くにあるような気がして落ち着かないなぁ。
明るいところへは慣れてしまうから、暗いところを忘れると明るさが強くなってきて前が見えなくなるのだなぁ。
忘れていいものだってあるのになぁ。

 

笑っていたいなぁ。

 

他人の笑顔が眩しいとき、何を見て何を思って笑えばいいのか分からなくなるのです。

笑えたときに笑えたと気付かないくらいになったらいいなぁ。

笑いたくないときに笑って涙を流すより、
笑いたいときに笑って泣きたいときに泣くとすごくいい。

 

わたしは悲しいんだよーわたしは苦しいんだよー。
わたしは何も分からなくて辛いんだよー。
それを叫んでもいいみたい。
それを叫んだらいいみたい。
それしか言わなくてもいいみたい。

 

ずっとそのまま、いえそんなこときっとない。

 

必要なものはなにもない。いつだって尊いものはその心です。
暗いところに心を奪われないでください。

 

愛する人にだけ奪われてしまえばいいのだなぁ。

 

明るいところは暗いところを消し去るパワーがあるから、それを受け取れるということを忘れないで下さい。

 

またいつの日か、

笑っていることに気がつかないくらい笑ってるあなたがいるはずですから。

 

 

 

すごく暗いことを書いていると書きながら感じていました。
暗かったのです。離れた場所にくらいところがあったのです。
私は今明るいところにいるのに、私の知らなかった真っ暗なところがありました。

そうしたギャップが受け止めきれなくなるときがあります。
どうしようもない気持ちになるときがあります。
正直に申し上げますと、すごく怖いです。

 

そしてそれを書くときも怖いです。
私の暗いところを書いてみたけどやっぱり暗い部分はどう書いても暗い。
明るく書こうとすると言葉が雑になり書けない。
同情を買いたい訳でもなく私はあなたを救いますと言いたい訳でもない。

 

ただ怖かったので書きました。
同時に真っ暗なところにいる人へも書きました。
読む人へ何が伝わるのかどう伝わるのかさっぱり分かりませんが、
たった1人でも何かを受け取っていただければと思います。

 

ちなみに私はその昔、真っ暗の中にいたのでどれだけ暗いものも否定しません。
まっっっっっっっくらのところでもあっっっっっかるいところでもなんでもいいです。
なにかよく分かりませんがなんでもいいです。
なんでもナンでも名探偵コナンでもなんでもいいです。
なんでもオーライです。

 

けれど、ナンはキーマが合いますね。

 

なんの話だよ!?

「ナン」の話だよ!

 

...

最後くらい少しくだらなく終えたい...私は偉ぶる文章書いている単なるバカですから最終的に、くだらない奴の文だったなと鼻で笑っていただければ幸いです。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

感謝と共に。

 

ここで1つ、お伝えしたいことがありますので書かせて頂きます。

わたくし、なると申します。なんとかなるのなるでございます。最近ブログを始めて、書いて書いて投稿して削除して投稿して書くことに悩んで悩みまくっていた人でございます。

 

このブログを多くの方に見て頂きたい。
そう願い書くことを続けることとする。と決めた日、
Twitterでまなつさんのストリップに対する熱いツイートを発見し、
己の感情が爆発してしまい頭の中が一足早く桜満開のようでございまして感動を味わったのですが、後先考えずまなつさんへ世界が広がりましたというブログを書いていいですか?とお尋ねし許可を頂きました。

 

許可を頂いたので書くことになったのですが、
ふと我に返って、頭に浮かんだ言葉がありました。

「やばい」

 

そして一生懸命書きました。
そして書けたことをご報告させて頂きました。

 

まなつさんがリツイートやいいねをして下さることが毛頭なかった状態で、リツイートやものすんごいいいね!をして下さり、それからあっという間に私のブログは今までで1番のアクセス数となりました。まなつさんすごすぎるのですなぁ...。

 

あの...本当に今ここで申し上げておかなければ気が済まない事があります。
松岡修造並みの熱さを見せつけたシャイア・ラブーフのようなすごく熱くしついこい文面となるかもしれませんが、ご了承下さい...

 

まなつさん、わたくし何も考えずTiwtterでさらっと話しかけてしまいましたが、本当はフォローするのも手軽にぽちっとできないくらい憧れがあり尊敬しており大好きな方なのです。大好きな文筆家さんです。

 

私のこだわりなのでしょうかなんなのでしょうか、
扉の隙間からスーっと覗いていたい、と思いTwitterをフォローせず拝見しており。
大好きなアーティストのライブ映像に画面越しから拝むように小さな拍手をする、というような気持ちで読者登録をし星をぽちっとしたり。
拍手より拝む域に達してしまうことがあるのですがその域におられまして...。

 

そのまなつさんに話しかけてしまった「やばい」と
そのまなつさんが私の書いたものを見て下さる「やばい」と
色々やばすぎてやばい状態が続いてずっとやばかったのです。
出川哲朗さん並みのやばいです。「やばい」という言葉がこれほど頭に何度も思い浮かんだのは人生で初めてでした。

 

すごく嬉しくて、
すごくありがとうございますの気持ちでいっぱいで、
すごくすごく...

 

私は救いを求めて色んなブログを拝見していたのですが
目に留まったのがまなつさんのブログでありました。
もうまなつさんのブログを読んだ時点で私の一部は救われておりました。
自分自身のあり方や物事の目線。色々な学びがあり同じ人間として同じ女性として尊敬し、最初の記事から全部愛読しておりました。

 

そして旅記がいいですね。すごくいいです。noteをまだ購読していないので、後に購読します。

 

まなつさんの書いている文で救われる者がここにいる。
そしてまなつさんの周りにおられるブロガーさんやまなつさんのファンの方々も私と同じように救われていたりするものなのでしょう...。

 

まなつさんの持つ力、とても強いものがある。

 

まなつさんの書いたものが、私という人間を幸せにしていることを、この文章で受け取っていただければと思います。

 

そして今まで恐縮でいいねやフォローができなかったわたくしですが、
たった1つのことがものすごく励みになったり、
自信に繋がったり相手に伝えることができたり、
たくさんの温かさに触れました。
そして褒めて下さる方もいて本当に嬉しかったです。
私よりはるかに素晴らしい文をお書きになってもご自分の書いた文を否定しなさる方もおられて。
否定をせず悲しくならずにいてください。
一生懸命書かれたであろうものを私以外の大勢の方々が目にしているはずです。
直接伝えてこられる方がいなくてもきっとどこかで、私のようなまなつさんのブログから色々な学びがあり人生の一部となっているような方はきっとどこかにいるはずです。

 

応援してます。

 

とにかく色々な温かさを感じきちんと感謝を述べたいと思いましたので、このような文を書きました。
一生懸命書いていたのですが、今やっと出川哲朗さんが頭の中を去っていったようです。

 

改めて、感謝を。

 

ありがとうございました。

 

 

この言葉、大好きなので貼らせていただきました。

 

あと1つ...ポールダンス素敵です。

ポールダンス、やばい。

まだ出川哲朗さんはいらっしゃったのだなぁ...。

 

最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

私とおっぱい

 

いつから同性愛者だったのかと問われると

5歳くらいの頃からではないでしょうか。とお答えします。

幼き頃から女性が好きだったのだなぁ。

 

5歳の頃、記憶は曖昧ですが確かその頃です。

母以外の女性のおっぱいをテレビ越しに初めて見ました。

昔は裸でもモザイクをかけずにテレビに映っておりましたね、

木の実ナナ×古谷一行×火野正平

という3名の名を見ただけでピンとこられる方いらっしゃるかと思います。

温泉に入っている方々綺麗でした...。

 

初めて見たおっぱいのことをすごく覚えている理由がちゃんとあります。

単純にすごく綺麗だと思ったからなのです。

その女性は背筋がピンとして水着のショーツのみを着用している姿でした。

すごく美しくて軽やかに歩いていて...衝撃を受けるというより見惚れていたといいますか。

ほんと美しかったのです。

 

しかし、その水着のショーツのみというのはどういった状況でしょう、と疑問に思われるかと。

理由があります。

それは、水着が透けて見えるメガネを発明したぞ!というコント。

つまりお笑い番組でした。

そのお笑い番組が大好きで所々エッチなんです。

いやエッチだったから好きだったわけではありません...

出演されてる男性のことが、いつか結婚する!結婚したい!と思っていたくらい好きだったからなのです...。

それでです...何の弁解ですか...これは。

 

ですが幼少期から、

お笑い番組で女性の裸を扱うもの=本当は見てはいけない悪いもの

という認識がありました。

家族で番組を見る時居心地が悪く気まずかったのを覚えています。

 

女性の体に魅力を感じる。

同性でこういった感覚を持つことはとても気持ち悪いことなんじゃないかと、子供の頃から思っていました。

気がつけば可愛いモデルさんや美しい女優さん(主に海外でご活躍なさっている方々)のファンになり眺めている自分を、

気持ち悪いと思っていたのです。

コンプレックスでした。

このコンプレックスは隠して生きていくものだと、見せてはならないものだと。

 

それと同時に、男性と同じ目線で女性を見ているのかもしれないという自分が嫌でたまりませんでした。

私の父が浮気癖が治らない女好きの男性であったため、

自分と父を重ねて、

私は父と同じ変態なんだ。そう感じることが嫌でたまりませんでした。

 

「変態」

 

自分のことを「変態」で一括りしていましたね。

変態の私はきっと変態な顔をしているに違いない。

変態の私はきっと他者から見ても変態の顔に違いない。

変態フェイス。私は変態フェイス。

ずっとそう思っていました。

 

しかし、概念を変える一冊の本に出会いました。

 

星野源著「蘇る変態」です。

 

http://amazon.co.jp/蘇える変態-星野-源/dp/4838726619

 

申し訳ありませんがまだブログの知識が浅くあの画像付きのURLの貼り方が分かりません...。

かっこよくぼん!星野源!という画像付きの商品を載せたい...。

 

話が逸れましたが、

この本で綴られている星野源さんのAV女優さんへの目線がすごく素敵だったのです。

変態とはなんぞや。

そう思うようになってから徐々に自分の変化を感じ始めていました。

 

同性愛者ではないかと気付き始め、

女性へ対する自分の気持ちを確かめ、

同性愛者である自分を受け入れた。

 

それだけですごく生きやすくなったのです。

 

ですが自分が抱く感情と身の周りにおられる方とのギャップ。

比べるものではないはず、そう思いながらもあのコンプレックスがコンプレックスのままでした。

すごく悲しかったのです。

 

そうした中でつい昨日、

素敵で読む者を魅了する文をお書きになる方のTwitterを見ていると、ストリップに対して綴られた投稿がありました。

 

 

 

ものすごく熱い思いが込み上げてきたといいますか...。

コンプレックスという名の錘が外れ消えた。

 

本当に、本当に世界が広がったのです。

 

女性の魅力を声に出して言えるのは「可愛い」「綺麗」「おしゃれ」といった目線でしかいけないと思い込んでいたのです。

 

女性の体について同性が感想を述べることはおふざけか建前でしかないと思い込んでいたのです。

 

自分の見ている世界だけじゃ、狭かったんだね。

 

女性のおっぱいの美しいところや、

足の筋肉の美しさ、首筋のすらっとした綺麗なライン、お尻の膨よかさ、

女性そのものがとても美しく感じられます。

 

ストリップやポールダンスなど、

目の前で見たことが一度もありません。

ですがストリッパーさんやポールダンサーさんのお仕事に対する想いを目にした時、

感動しました。とても尊敬しています。

そういったところからも美しさが感じられます。

ストリップやポールダンスだけでなくフィットネスの大会で優勝されている方、

またそれに励まれている方々の思い、
すごく芯を持った素敵な女性ばかりで以前とは完全に見方が変わっております。
とても素敵で熱心で愛があって努力されていて日々一生懸命な方が自分の見えていない場所にたくさんいることを知りました。

ストリップ劇場へ行きたいです。ポールダンスを見たいです。

 

そしてやはり、私は女性が好きです。

 

性差別でも偏見でもなんでもありません。

私は初めて他者のおっぱいを見た時から女性を美しいと感じ、

女性へ恋心を抱き女性への愛があっただけです。

ただそれだけ。

ただそれだけのことが私の人生を愛のある人生に変えてくれています。

 

5歳頃の私に、今を伝えたいです。

あなたは愛に溢れた人間になれるようですよ。

と。

 

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

一生懸命書きました。真っ直ぐに偽らずに...

犬を抱っこしたままのタイピングでこのような長文を打ったのが初めてなので肩がコリコリです。

ですが下手な文章でも自分の想いが言葉になっていく工程がすごく好きです。

これは誰に向けてのお手紙にするか...

届くべき人の元へ届くお手紙でありますように。

 

まなつさん、personal trainer yukoさん、星野源さん、色々な方々の価値観に触れ救われています。

感謝します。

 

同性愛者の方、同性愛者を受け入れられない方、異性愛者の方...。

 

どのような方でもこの文を読んで何かを感じて頂けたら。

いいなぁと思います。

 

最後に改めてお礼を申し上げます。

ありがとうございました。

虹がでたときは.このブログについて。

 

あなたが私のもとを離れ遠くへ行った日、空に虹が出ていました。

とある少女が書いたあなたの似顔絵にも、虹が書かれていてそれには随分驚かれたことでしょう。

あなたはまっすぐ迷わずに歩いて行くことができましたか?

少女が書いた地図を頼りに、虹の麓まで辿り着くことができたと私は感じているのですがたまに気になります。

 

なぜこんなことを書いたのでしょう。

それは私がいるリビングによく“虹”が出現するからなのでしょう。

 

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綺麗です。そこにあなたがいるかのような、不思議な温かさに包まれるのです。

 

あなたとの日々をを思い出しながらこれを書いています。

ところで今日食べたお昼ご飯、いかなごのおにぎり。絶品でしたよ。

 

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このいかなごは母の手作りです。

何度目かのいかなごですが、毎回とても美味しくて白ご飯がとてもとても進みます。

このいかなごが食べられる春の始まり、とても好きです。

花が芽吹き始め風が心地良く感じながらもひやりとする。

鳥の声に耳を傾け、春ですね、と憂う。

 

あなたと見た梅はいつのまにか咲いていた。咲いたね、と語りかけ憩う。

春の柔らかい日差しをとても眩しそうにしながら浴びたあの日を鮮明に思い出しますよ。

あなたと見た梅を見る度に。

 

この温かな気持ちは、いつか私の心で花となり、誰かの心を温められるでしょうか。

もしそのような日がきたときは、あなたを見ていたときの優しい顔をしている私でいたいと思います。

あなたといた日に嫌な自分なんてものはどこにもありませんでしたもの。

優しい顔でいられましたもの。

あなたの心が私にそうさせたのですから、これから私は誰かにそうさせるべきだと思うのです。

 

温かな日差しはやがて猛烈に暑い日差しとなりますが、

どのような日差しであっても、またどこにも日差しがなくても、

この日々を愛し、私自身と私と出会う人々を温かな愛で包み込み生きていきますね。

では、また。

 

おわり。

 

 

・突然ですが、ラブレターを書くような気持ちでブログを書いていこうと思います。

ブログを書き始めてから、私は何を書きたいのかが明確に分かっていません。

これからも分かる気はしません。

ですが書きたいという欲求があるのです。

それは誰かに認めてもらうことでもなく、

読者やアクセスが伸びてトップブロガーになりたいという欲求でもなく、

ただ何かこう書かなければいけないような、書かずにはいられないものがあるのです。

今までブログには載せずに色々なことを書いてみましたが、

どれも感情が複雑でひとまとまりにならない納得のいかない文章しか書けていませんでした。

そこで、思い返してみたのです。

私が元々文章を書くことが好きだったのはなぜか。

それは、伝える相手がいたからなのです。

家族、親友、友人、ブログの仲間。

かつては私の周りにいる大事な人全てに手紙を渡していました。

そこで私は書くことを覚え、伝える術を手に入れました。

話すことがうまくない分、字を並べ自分の言葉として相手に伝えることは

私にはとても合っていたことだったのです。

話してうまく伝えられないことは手紙で伝える。

それは大事な人へのラブレターであり、コミュニケーションでありました。

このブログで私が書いた文章をより多くの方に見て頂きたいという欲求はあります。

しかし、誰でもかんでもという訳ではないのです。

私の文章が必要な人にだけ読んで頂きたい。

このブログを見てくださる方は

私にとっては個々の「あなた」となり

この文章を書くことは「あなた宛のラブレター」となると思いました。

深く考えたわけではありません。

自然にそう思えたのです。

 

偽って書くことのないとても素直な文面となりますので、

間違った箇所.語彙力のなさ.多々至らない点があるかとは思いますが、

あなた宛のラブレターが風に吹かれてあなたの足元に落ちているような、

そんなブログを書き続けたいと思います。

 

非常にまとまりがなく申し訳がないのですが、今日はここまで。

 

見てくださった方、ありがとうございました。