はじまりからおわりまで

人生はきっと愛だらけ

死んだ人 生きている人

大杉漣さんが死んだ。

 

テレビで大杉漣さんを見ると「あ、大杉漣」と呟いていた。何故だかは分からない。見ると言いたくなるのだ。「あ、大杉漣」の大杉漣が死んだニュースを見たときすごく落ち込んだ。名前を呟いていただけなのに。大杉漣は死んだんだ。もういないのか。

 

昨年のこと。祖母が5月、愛犬が6月に立て続けに死んでいった。祖母も愛犬も癌だった。死んだ悲しみで自分の気持ちがぐちゃぐちゃになった。どう悲しんでいいか分からなかった。悲しみを誤魔化すように生前の話題でなんとか立ち直ろうとした。あの時可愛かったねぇあんなこともあったねぇ。けれども毎日が曇り空のように薄暗かった。夏を覚えていない。何してたんだろう。

 

祖母の死を受け入れるのに時間はかからなかった。偉大な祖母は相変わらずの優しい顔をして死んでいった。お疲れ様でした。そんな風に思えた。だが困ったことに愛犬の死は全く受け入れられなかった。共に13年生きてきた愛犬は、私のパートナーであり誰よりも大事だった。

 

家の中でおしっこをする子だった。トイレシーツ以外の場所であえておしっこをするのだ。こっちが相手をしない時、壁におしっこをかけるのだ。いつも決まった壁に。なんてこった。そんなことしてどうする。床と敷居の間に染み込んでるじゃないか。まったくもぅ。更にこの子、おしっこしたことを自己申告してくるのだ。なんとも言えない哀れな声で「おしっこしましたよ〜ぼくおしっこしたんだから〜」って。もうあなた犬ですか?と言いたくなるくらいよく喋る。そんなにおしっこ自慢しなくていいんだから。まったくもぅ。

 

手の焼ける子だなぁ。この子のまったくもぅは1つだけではなかった。ご飯が大嫌いであまりにも食べないのでスプーンで食べていた。掃除機が怖すぎて逃げ回り吠え続けてた。雌犬を追っかけ回し逃げられ挙げ句の果てに雌犬からパンチ攻撃を食らっていた。その雌犬に負けてたまるかと一念発起したのか気付けばご飯を飲むように食べだしていた。おやつのガムを雌犬に取られてふて寝していた。取り返さない。争わない。相手は雌犬だもの。紳士だったわね。まったくもぅ。

 

どれも愛おしい。あの子の全てが愛おしい。おしっこだって掃除機が迷惑そうな顔だってパンチ食らってふて寝している姿だって。全部ぜーんぶ愛おしい。日向ぼっこをしていると眩しそうな顔をしてただぼーっとしている。人が来ても吠えずにぼーっとしている。そのぼーっとしている姿、たまらなく愛おしい。

 

愛犬は5月に死んだ祖母と仲良しだった。祖母の横に座りなでなでしてもらっていた愛犬はすごく幸せそうだった。2人で一緒に旅立ったんだろか、祖母が痛くて苦しそうな愛犬を救いにきてくれたのだろうか。愛犬は祖母が先に逝くまで待っていたのだろうか。たくさん考えてみても何も分からない。2人で何を約束したんだろうか。2人の間にこちらが見えない深い絆があったのだろうか。ずるいなぁ。私のパートナーだったのに。ずるいなぁ。優しいなぁ。あなたのことだから、祖母が1人ぼっちで寂しくならないようについていったんだろう。優しいなぁ。優しすぎて困るよ。私、置いてかないでよ。

 

置いていかれた。そう思う人はたくさんいるだろう。その人は今日、どんな風に過ごしているのだろう。7年の歳月が過ぎてから何が変わったのだろう。前を向いて。進んでいくのよ。そんなの無理だ。悲しみを封じ込めるような言葉、封じ込めてもまた溢れてくる。前なんて向けない。あの日から止まったままなんだ。どうにもできない。

同じ国の人、とてつもない数の死者行方不明者。生きていないあなたと生きている私。息をしていないあなたと息をしている私。骨だけのあなたと皮膚内臓脂肪眼球がある私。どこにも姿のないあなたとここにいる私。同じように息をしていたあなたと私。先に逝ってしまったあなたと置いていかれた私。

 

悲しみは相変わらず悲しみのまま。私も相変わらず私のまま。あなたは相変わらず私の記憶のなかにいる、あなたのままで。あなたはあなたしかいなくて代わりはどこにもいないから、私だけのあなたでいて。私だけのあなたは私だけの記憶の中で生きて。ずっとずっとその優しさを私にちょうだい。記憶の中だけでも。

 

一緒に生きた日を忘れない。一緒に生きた日は全て宝だった。優しさだった。愛だった。


だから私があなたのもとへたどり着いた時

 

ずっと生きてきたんだよあなたの愛と優しさと。おかげで充実した人生だったよ、ありがとう。

 

と言えたらいいなぁ。